佐々川の支流、福井川の浸食作用によって西側を除く三方を削られた河岸段丘の一つ、標高160mほどの内裏山(だいりやま)山頂に築かれた山城である。
中世の在地領主、志佐(しさ)氏の居城である。志佐氏は松浦党(まつうらとう)の一族、御厨清の子志佐貞をもってその祖とする。内裏山の山頂を占める主郭(しゅくるわ)は、その外周のほとんどが高さ30m程の楕円形の自然崖により形成され、主郭から見下ろすことができる大谷には3条の土塁と空堀を配置した厳重な防御機能を有するの大手道が作られている。このような自然地形を最大限に活用した山城の在り方は、県下では他に類例を見ることができない。また、山麓に向かって放射状に延びた尾根や谷筋に出丸、櫓台、竪堀などを配置し内裏山全体を城塞としており、これらの遺構の保存状態も良い。
松浦党の研究及び中世城郭の研究にとって学術的に価値の高い史跡である。
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